福井から西へ日本海沿いに下る丹後半島は聖徳太子の母である穴穂部間人皇女(あなほべはしひとのひめみこ)が隠れ住んだ場所だ。
そして用明天皇の息子である聖徳太子の叔父、穴穂部皇子(あなほべのみこ)と同母弟崇峻天皇もしくは仲の良かった宅部皇子が合葬された」と の説があるのが、先述した藤ノ木古墳なのである。彼らと姉妹の穴穂部間人皇女にも間人(たいざ、はしひと)という名がついている。
【はし=破斯】とは、中国語でペルシャを意味する。はしひと、とは読んで字の如く破斯の人を意味すると考えている。
藤の木古墳の被葬者と一緒に埋葬されていた冠にはおびただしい鳥が飾り付けられていた。ペルシャのゾロアスター教では死者は鳥が黄泉の国へと先導するとされ、鳥葬の風習があった。其のデザインの冠がササン朝ペルシャの遺産に見られるという。
藤の木古墳で初めて其の冠と、沢山の馬具を見た時、衝撃を受けた。「一体この人(たち)は、何人?」と。
斑鳩町文化財活用センター(愛称:斑鳩文化財センター) | 斑鳩町
彼ら兄弟姉妹の母とされる人物は欽明天皇妃で小姉君( おあねのきみ、生没年不詳)と呼ばれている。
蘇我稲目の娘とされているがその名前が【小さいお姉さん】って一寸変ではないか…
(続く)