Morning Dew of A Lotus Petal

古今東西文化と歴史の謎、着物、茶の湯、奈良・神戸・大阪・京都の風物詩など筆に任せて書いてみます。

継体天皇の系譜と聖徳太子までの血族~①

日本がヤマトだったころ、数々の豪族や渡来の族長が勢力争いを繰り広げ、そして勝者が歴史を作っていき、やがて諸族を統べる王(おおきみ)は天皇となった。日本書紀古事記が編纂され、天皇という呼び方とその存在の正当性が確立される。

難波(ナニワ)にあった大規模な前方後円墳を築いた大和朝廷の子孫は武烈天皇を最後にいったん途絶えたのではないかとの説が昨今唱えられている。

確かに、次の26代天皇とされる継体天皇は「降って湧いたように」突然歴史上に登場し長い年月を費やして天皇として認められるのだ。

ちょうど五~六世紀の頃である。

 

五世紀にははるか西方の国ササン朝ペルシアでキリスト教グノーシス派、ゾロアスター教、そして仏教と三大宗教の影響を受けて興ったマニ教が弾圧されて国外にその布教を求めた時期と重なる。マニ教西アジア、トルメニスタンや中央アジア一帯に広まり,インド,中国にも伝わった。現在では消滅してしまったというこの謎の宗教ははっきりその布教先を東アジアに広げていたことが、わかってきている。この検証はまた別の機会にするとして、今はその布教が少し遅れて日本まで来ていたのではないか、という想像をしてみる。

 

マニ教の特徴として仏教などの別の宗教に見せかけてその存続を守るというやり方がある。6世紀の日本でマニ教が他の宗教の「隠れ蓑」をかぶって伝えられていたとしても不思議ではないと思うのだ。

 

継体天皇は福井と所縁の深い、そしてこの天皇のときに本格的な騎馬文化がもたらされたとする説がある。福井を【越(コシ)】の国と呼ぶ。男大迹王(ヲホドのおおきみ)と呼ばれた継体天皇の父は彦主人王(ひこうしのおおきみ)とされている。天皇になる人の父なのに生没年が不明なのだ。『上宮記』では「汙斯王(うしのおおきみ)」とも記されているそうだ。【汙斯(ウシ)】である。

 

(続く)

 

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継体大王と渡来人―枚方歴史フォーラム

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