Morning Dew of A Lotus Petal

古今東西文化と歴史の謎、着物、茶の湯、奈良・大阪・京都の風物詩など筆に任せて書いてみます。

ササン朝ペルシアとマニ教の弾圧~

奈良となぜか関わりの深いペルシア文化。その源流を探るため、ペルシャ史を調べてみようと思う。

 

私の住む奈良と大阪の県境、斑鳩(いかるが)と呼ばれる地域に藤ノ木古墳という6世紀後半に造られたとされる円墳がある。そこで発見された黄金製の馬具や装飾品を見に行った時に、被葬者とともに埋葬されていた冠がササン朝ペルシアで発見されたものをそっくりだと知って驚いた。その後、奈良国立博物館で毎年開催される正倉院展を見に行くと必ずペルシャに所縁のある多数の品々が展示されていて、その都度違う種類であることにも違和感を覚えた。なぜか沢山のペルシア文化の遺産がはるか東の日本にあるかつて都だったこの地に集中しているのだ。単なる東西貿易の域を超えている。

 

奈良が日本の中心であったのは6世紀から8世紀までである。

 そのころ西アジア一帯に勢力を拡げていたのはササン朝ペルシア(Sassanid、ساسانيان - Sāsāniyān 、226年 - 651年 首都:クテシフォン)という王朝であった。

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王朝は現在のイラク辺りに首都を置きその勢力はイラン、トルメニスタン、アフガニスタンの辺りまで拡大しゾロアスター教を国教とした。

 ユダヤ人から興ったキリスト教とインドの仏教の影響がこの地方に及び、ペルシア人のマニ(216年 - 276年?)がキリスト教グノーシス派と仏教の影響を受けゾロアスター教の要素をも含んだ新しい宗教を興した。マニ教摩尼教、Manichaeism)である。マニ教は一時王の保護を受けたがその後弾圧されマニはホルミズド1世の代に処刑、以降この宗教は国を追われることとなる。3世紀初から4世紀のことだ。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a7/Manicheans.jpg

(image sorce: Wikimedia Commons)

 時代は下って5世紀から6世紀、マニ教の影響を受けたマズダク教が興るがホスロー1世(フスラウ、Khosro 、 Khusraw、Khosrau 531年‐579年)の代に弾圧される。マニ教も同様に禁止された。

 

この時代にペルシアでは、カナート(قناة 、qanāt)と呼ばれる灌漑工事が行われていたという。乾燥地域で水を遠くまで運ぶための地下用水路だ。同様のものはアフガニスタンパキスタンウズベキスタン新疆ウイグル自治区などにもみられるそうだ。

山麓扇状地などにおける地下水を水源とし、蒸発を防ぐために地下に水路を設けたものである。山麓に掘られた最初の井戸で水を掘り当ててその地点から横穴を伸ばし、長いものは数十kmに達するという。

 

6世紀末にササン朝ペルシアで禁止されたマニ教。そしてその後王朝は東ローマ帝国との戦いに敗れ滅亡する(651年)。

 

6世紀の日本といえば第26代継体天皇(450年? - 531年)、第29代欽明天皇(509年? - 571?、第31代用明天皇(?‐587年)から第32代崇峻天皇(553年?₋592年?)の頃だ。

 

これらの天皇の代に現れた政治手腕や文化、そして付けられた名前と本拠地、所有品、残されたものから推測される人物像からペルシアとの関わりを想像してみたい…(次回に続く)

 

(2018年元旦)

 

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