Morning Dew of A Lotus Petal

古今東西文化と歴史の謎、着物、茶の湯、奈良・大阪・京都の風物詩など筆に任せて書いてみます。

ペルシャと天平文化

奈良を訪れる外国人観光客の中にイランやウズベキスタンからの人を時々見かける。

ある時、彼らの内の一人に奈良の文化にはペルシャ(現イラン~ウズベキスタン付近)の影響を受けたものが少なからずあるんです、とお伝えすると、知ってるよ!と答えてくださった方が現れた。

 

正倉院展を訪れたら一目瞭然だ。何故か奈良時代以前の一時期に大量のペルシャ文化がこの国に流れ込んできた。その事実を裏付ける資料がまたひとつ、奈良でみつかったという。

 

記事によると、平城宮跡から人事を担う役所・式部省の木簡が出土したのだが、そこにペルシャ人とみられる名前《破斯清通》が、確認されたのだ。さらにそこから平城宮約7000人のペルシャ系の役人が都で勤務していたらしいことが判ったらしい。

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 《破斯》とはペルシャ(現在のイラン付近)の地名・民族を指す言葉とされており、現代の中国語でもペルシャのことを《波斯(Bō sī=破斯)》という。木簡は今でいう政府官僚を育てる《大学寮》のような施設の宿直記録として残されているとのことだ。

 

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ペルシャ人の役人とみられる「破斯清通」という名前(右側)が確認された木簡の一部の赤外線写真(奈良文化財研究所提供)

 

またまた驚く。「なんとっ、7000人⁉」その人達(全員外国人)がみんな政府官僚になってマツリゴトを司るの?

日本の遣唐使の舟に乗ってくる可能性は100人くらいまでならあるだろうけれど、数千人規模なんて考えにくいなあと思うのは私だけだろうか。


発見された内容には 特別枠の役職名「員外大属(いんがいだいさかん)」という肩書があるそうでそれは「専門知識を持つ外国出身教師」という意味らしい。

鼻が高い西域出身らしき人物の顔を描いた別の木簡もあるらしい。

 

ペルシャ民族の血を引く政治集団が自ら海を渡り移住して来たと考えるのが自然ではないだろうか。一体イラン高原北アジアから日本まで移動するのにどのくらいの年数がかかるのだろう?とても一代の内に到達しそうにないような気がする。おそらく親子2代~3代に渡って、馬で大陸を横断して、最後は船に乗って。とすると7世紀~8世紀のオリエントの勢力の興亡が気になってきた…。

 

 (2017年12月19日)

 

 (引用元:産経WESTニュース)

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